| 広い屋敷の一角にある茶室。緑の木々に囲まれ落ち着いた雰囲気をかもし出している。この家の主 岡本等 |
| は、折にふれ孝子夫人のたてた茶をたしなむ。多忙な日々を過している彼にとって、お茶はストレス解消剤なの |
| だ。 |
| 茶をすすりながら、幽谷の感じを標わせている枯山水の庭を眺めていると気持が落着いてくるのである。 |
| 平成元年6月18日の日曜日朝「お茶をたてましょう」という夫人の誘いで茶室に入った。岡本はこの日古稀を |
| 迎えたのである。 |
| 「早いものね」 |
| 「うん」 |
| 夫婦だけに通ずる会話である。結婚してからでも43年。その間、いろいろなことがあった。楽しいことも、辛いこ |
| とも、そして悲しいことも。それらすべてが、この短かい会話の中に折り込まれているのである。 |
| やや沈黙が続いたあと、岡本は自ら言い間かせるように、軽く瞼を閉じたまま「悔いのない70年やったの−」 |
| とつぶやいた。 |
| 「おれは自分に与えられた仕事を精一杯やってきた。それなりの責任も果たしてきた」 |
| 言葉には出さなかったが、問われればそう答えたに違いない。低い口調ではあったが、その声は自信に満ちて |
| いたからだ。 |
| 大正8年6月16日、福井市日之出三丁目の岡本木材店主、岡本三松の次男(長男は早く死去)として生まれ |
| た岡本等は、何不自由なく、近在のぼんぼん≠ニして育った。小学校から福井商業時代は、手に負えないほ |
| どのわんぱく。上級生も一目置くほどだったが、学業は優秀だったし、リーダーとしての資質も備えていた。 |
| 卒業後、しばらく家業を手伝うが、昭和14年鯖江連隊(金沢九師団管下)に入隊した。
福商卒業の年、つまり |
| 昭和12年には支那事変が起きていた。 |
| 「7月7日、豊台駐屯の我部隊が7日夜、蘆溝橋付近で、夜間演習中10峙ごろ、同地から約一キロ離れた竜王 |
| 廟にある馮治安部隊110旅の219団より突如数10発の射撃を受けた。我部隊では演習を中止すると共にとり |
| あえず謝罪を要求のため北平駐屯軍から森田中佐が現場に急行したが、一方該支那軍は8日午前4時半再び |
| 我軍に向け発砲したので止むなく応戦した(読売・号外)。 この事件は蘆溝橋事件と云われているが、なぜこの |
| 事件が発生したかはいまだに謎だといわれ真相はいまだにわからない。でも、この事件がきっかけで、支那事変 |
| つまり日中戦争へと拡大していったのである。そして、これをきっかけに軍部の独裁が着々と進んだのだ。 |
| たとえば、当時のマスコミの戦争に関する報道であるが、軍部の圧力によるものとはいえ、連日
「勝利々々」 の |
| 報道と、手を変え品を変えて、戦争の正当化と、戦争反対者を非国民呼ばわりする風潮を作り上げてしまったの |
| である。 |
| このような社会環境だから兵役のため入隊するのは男として当然であるし、甲種合格するのは名誉なことで |
| あった。入隊する日は、初入営の「のぼり」を先頭に地区の氏神様で町内の壮行会が行われ、町内の人たちか |
| ら祝いと激励の言葉を受けたのである。 |
| もちろん、岡本の場合も例外ではなく「がんばれよ!」の声を背に、胸を張って鯖江三十六連隊の門をくぐった |
| のである。 |
| 入隊した岡本は「入隊した以上将校にならねば」と、生来の負けん気で予備士官学校に合格、卒業の際には |
| 教育総監賞まで得た。 |
| 満州、黄硫鳥を経て、父島で終戦を迎えたが、強運に恵まれた岡本は、戦場の修羅場を知らずして軍隊時代 |
| を終えたのである。最終の階級は大尉であった。 |
| 復員したのは昭和21年2月。福井市は8月の米軍空襲で焼野原となり、視界に入いる建物はほとんどバラッ |
| クであった。もちろん立派だった岡本の家も丸焼け。母が小じんまりした家を建てていてはくれたが、家業の再 |
| 開はゼロからのスタートといってよかった。 |
| だが、不屈の精神に富む岡本は家業の再興に全力をあげた。幸い、空襲によって焼野原となった福井市では |
| 復興のために木林の需要が多く経営は順調に伸びていった。さらに2年後の23年は福井大震災で、やっと復 |
| 興のきざしを見せた福井市は再び元のもくあみ。家屋が倒れたところへもってきて火災が発生して焼野原となっ |

福井市六条地区にある福井県木材会館 |
| たのである。重ねて被害を受けた人たちが、物心両 |
| 面で受けたた痛手はまことに大きかった。でも木材 |
| を取り扱う者にとってはラッキーだったわけで、岡本 |
| は復員後2年余にして経営基盤を確立したのである。 |
| しかし、これだけなら「幸運だった」のひと言で終わっ |
| てしまうが、岡本の立派だった点は、業界の発展に |
| 意を尽くしたことである。家業を継いでしばらくすると、 |
| 業界青年層グループのリーダーとして、木材組合の |
| 結集を呼びかけ、昭和25年に福井市木材商業組合 |
| 設立に貢献、理事、副理事長、理事長、相談役として |
| 連続39年間にわたり、その正しい運営と、業界の振 |
| 興発展に精力を傾注し、外材の共同仕入事業に積極 |
| 的に取り組み、組合員の木材需要の安定に寄与した。 |
|
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| また昭和26年には、現在の福井市木材林産協同組合会館建設に私財を投じて完成させるなど公私両面に |
| わたって業界のためにつくしているのである。 |
| 木材の市売り事業についても功績をあげた。つまり、昭和25年、木材の配給、価格の統制撤廃の改革を |
| 察知して、県下では初めて木材の市売り事業を取り入れ、本格的に事業拡大に取り組んだ。 |
| しかし、福井市管内の木材業者(買方)と、郡部の木材業者(売方)の間に相反する利害が生じてこじれたた |
| めに、昭和32年、県下一円の市売り事業を組織化、売方、買方の業者を以て構成した「福井県木材市売協同 |
| 組合」を設立した。全国からも注目され、多くの視察者が訪れるほどになった。設立当初から役員に名を連らね、 |
| 価格と需給の安定につとめた。 |
| さらに県木材協同組合の設立と運営などにもリーダーシップを発揮したのである。 |
| 具体的には、昭和29年に、県や関係機関に呼びかけるとともに、卒先して県下36の木材組合を包括した |
| 県木材組合連合会を設立させ、同年制定された県木材業、木材工業者登録事務の取リ扱いを実施するとと |
| もに木材業界の能力および実態把握に努力してきた。昭和59年の行政改革を契機に、県木材業、木材工 |
| 業者登録条例が廃止されたが、この制度の重要性を強調、県木材組合連合会の自主登録として各単位組合 |
| の組織育成強化づくりに役立たせ、優良県産木材展示、即売会や製材品のJAS推進大会を開催し、木材の |
| 需要促進とJAS製品の普及、格付け技術の向上を図り、また所属組合員との意見交換等が図られるなどの |

福井市稲津地区にある県木材市売協同組合管理棟と丸太
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| 目的達成に功績をあげた。 |
| また木造住宅建設の促進、国有林材の普及、製材 |
| 業労働環境の改善、木材会館の建設など 、木材界 |
| の為に尽くした功績は枚挙にいとまがない。 |
| 木材関係以外の公職も多い。列挙すると、県最低賃 |
| 金審査会委員、県収用委員会委員、同会長代理、県 |
| 交通安全協会連合会長、福井臨海開発促進期成同 |
| 盟会理事、福井市日之出小PTA会長、成和中学校P |
| TA会長、日之出社会教育会会長、日之出地区体育 |
| 振興会会長、福井商工会議所監事、県法人会理事な |
| どがある。このような活躍と功績に対して、これまでに、 |
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| 紺綬褒章(二回)、藍綬褒賞のほか、内閣総理大臣表彰(交通安全功労)、通産大臣表彰(中小企業育成) |
| など、数多くの賞を得た。そして今回の叙勲である。 |
| いずれも決して自ら求めたものではなく、与えられた仕事に対してひたすら努力した結果によるものであって、 |
| まさに「悔いのない七十年」だったのである。 |