岡本 等の歩んだ道

1、負けず嫌い

 岡本は大正8年6月16日、福井市日之出3丁目で出生した。父「三松」、母「みつ」のニ男であったが、
男は出生後ほどなく死亡したため実質的には岡本家の跡継ぎであった。両親は子宝に恵まれ8人の
子をもうけたが、うち男は2人。残りは女で6人。岡本は下から2番目であった。
 当時、岡本家は町内では旦那≠ニいわれる身分、つまり名士の1人であった。父「三松」は美山町
の横越で生まれた。家業は農林業で、三松の父甚太郎は山の木の売買をしていた。つまり山師である。
三松が福井へ出て材木商を始めたのはそのような因縁からである。三松が福井に出たのは明治32年。
家業との関連で木材業を始めたのである。

父親の三松さん
 前年に終結した第一次世界大戦の影響で、世界的な大不況となり、日本
もその影響を受け、地場産業である機業場や、産元織物商社の倒産が相
つぎ失業者が増えた。しかも米価が暴騰したのだから庶民の暮らしはたい
へん苦しくなった。
 福井県の統計によると明治43年の米1俵(60キロ)代金は5円7銭6厘だ
ったが大正6年ごろから少しづつ上がりはじめ大正7年には21円、8年に
は26円近くまではね上がっていたのだからまさに暴騰である。
 資料によると、東京の場合、中堅サラリーマンの給料が月30円から40
円。そんな時代に4人家族の米代が15円から16円もかかったというのだ
から、米の値段がいかにべらぼうなもので、 生活を圧迫していたかをうか
がい知ることができる。
 このため大正7年に富山県に端を発した米騒動が、福井市にも飛火、警
察や軍隊まで出動する騒ぎとなった。このように暮らしにくい時代ではあっ
たが、木材を商いとする岡本家は不況の影響をあまり受けなかった。三松とみつ夫婦の努力と、相つぐ
福井市内の大火に木材の需要が供給に追いつかぬほどだったからである。明治34年、三松が開業し
てから福井市で発生した大火は、明治35年3月(3300戸)、大正7年5月(430戸)、大正8年5月
(560戸)。このほか小さな火事は数え切れないほどあった。
 当時は消防体制が今日のように整備されていなかったし、道幅が非常に狭かったので、火事が発生
するとたちまち類焼する。とくに風でもあればたちまち大火になるのである。北陸では最も気候がよく、
湿気も少ない晩春にこのような大火が数多く発生したのはうなずける。そういったこともあってか、福井
市内の材木商は旦那衆が多かった。
 恵まれた家庭環境下に育った岡本はのびのびした生活を送った。幼ないときから負けん気が強く両
親を手こずらしたようだ。
 幼ないとき隣組だった井関勇(資生堂宣伝社代表)は、母の乳があまり出ないため、岡本の母「みつ」
にもらい乳をした。その間、井関は「みつ」の膝に抱かれているのだが、これを見た岡本は井関の母の
髪を引っ張って怒りの行動≠示した。彼にすれば、自分のものを取られたような気持になったのだ
ろう。岡本家の後継ぎと、して厳しくそして大事に育てられた岡本は、7歳になると旭小学校に入学した。
 当時は子供同士のけんかが花ざかりだった。それも地域対抗と
いった感じが強く、 町なら町内会対抗、 田舎では集落対抗だっ
た。現代っ子は兄弟が少なくて、しかもテレビ、ファミコンなど1人
でも遊べるものもあって、友だち同士の結びつきが弱いし、地元
意識も薄い。これに対して、当時は、子供同士が野外で遊ぶの
が最も楽しいひとときであったし、これによって社会性を身につけ
ていったのである。
 そういった子供社会にあって、岡本は、仲間うちでは大きな存
在であった。
 旭小学校は明治7年に開校。加藤寛治、岡田啓介(元首相)の
両海軍大将の母校でもある名門校である。そのことは旭小の児
童たちにとっては大きな誇りだった。当時、陸海軍の大将という
のはまさに雲の上の存在であったからだ。したがって、児童たち
はこのことをなにかにつけ口にして自慢する。他校の生徒はおも

高田派福井別院落慶法要のとき稚児
として出席した(小学校5年生のとき)
しろくなく、けんかを吹っかけられる。でも岡本がそばにいるときは、心強かったのである。肩をいからし、
鋭い自で相手をにらみつけ威圧した。くそ度胸があったのであろう。
 その彼は、日之出小学校の開校で、三年生になったときから同小学校へ通うようになった。わんぱく
ぶりは相変らずで、先生や両親を手こずらせたが、弱い者をいじめることはしなかった。
 当時、観音町通りは福井市の繁華街の一つで、夏から秋にかけて夜店が出てにぎわった。しかし
そこからほど遠くない日之出小学校界わいになるともう田園地帯。水田が続き、平岡山まで視界を遮
ぎるものがなかった(同山は頂上の平担な極めて低く、極めて小さい山。幼児の遠足場所として知られ
ていたが、笏谷石の採石で大正末期ごろには3分の1ほどになり、現在は全く姿を消してしまって、跡
地は県立病院の一部に利用されている)。また岡本の家の後は土場(貯木場)になっていて、足羽川
を下り、荒川を上って運ばれた筏が解体ざれ、この土場で取引きされた。このころの足羽川は、筏流し
ができるほど水量が豊かだったのか、池田や美山からスギやヒノキの筏流しがみられたのである。
岡本家の裏にある土場へ運ぶ場合は、荒川をさかのぼらねばならない。筏を引っ張って土場まで運ぶ
専門業者がいて仲仕をかかえていた。
 筏が到着すると、これを組んだ山師がやってきて、材木商とコップ酒を交しながら値段の交渉をする。
その日のうちに商談が成立しないと商人宿に泊って翌朝また交渉を始める。現在のようなセリはなく、
はた目にはなんとものんびりした商風景ではあった。フナなどの魚もいたようで、釣り糸をたらす人が
結構いた。岡本は子分?を従えてこの付近でもよく遊んだし、池に石を投げ、釣り人にどやされるなど
した。
 このほか、農家の人が、かついでいる肥えたご(桶)に石を投げ、農家の人がびっくりしたとたんに天
秤棒ののバランスがくずれ、桶が地面に落ち割れて臭い肥え(当時は人ぷんや小便など)が道一杯に
こぼれて悪臭に満ち、大目玉をくらったことなど、まさに札付きの悪童であった。
 でも成績は抜群、福井商業への入試は6番目の成績で合格した。ところが小学校ではあまりにもわ
んぱくなために優等賞はもらえなかった。
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