岡本 等の歩んだ道

  岡本が福井商業へ入学したのは昭和8年4月。この年は、日本が国際連盟を脱退して、自ら孤立化へ
の道をたどったほか、現天皇が12月23日にお生まれになった。県内では7月にNHK福井放送局が開
局、10月には福井平野で陸軍大演習が行われ、今は亡き昭和天皇が行幸された。
  当時の福井商業は同校の黄金時代。剣道、柔道、バスケットなどは県内で優勝したし、速記、ソロバン
は北陸3県で優勝した。辯論部も優秀。同部に籍のあった岡本は二度も県内大会で優勝した。また絵画
部にも入っていて、すぐれた才能を発揮、在籍中に、友人ら三人とショーウィンドー・ディスプレーコンクー
ルに参加し、特賞を得たことがあるし、似顔絵を画くのがうまかった。新任の教師が赴任してくると、さっそ
く似顔絵を書き、あだ名を付けたのは岡本であった。直観力というか、感受性がきつかったのであろう。
  柔剣道は必須課目であったが、岡本は柔道を選んだ。元来負けん気の強い岡本は段位めざして懸命に
練習した。上背はさほど無いが、がっちりした体の岡本は運動神経も発達していたのか、めきめき上達し
て3年生のときには講道館初段の免状を得た。念願の黒帯になったのである。岡本が手に負えないわん
ぱくになったのはこのころである。年令的にみて反抗期であったこともあるが、黒帯になったことも要因の
一つであった。

福井商業校舎と校内での軍事教練
  元来、度胸がよいところへもってきて腕っ節に磨きがかかったものだから鬼に金棒だったようだ。でも義
侠心には富んでいたようで、下級生や、岡本の同級生が上級生にいじめられるようなところをみかけると
「なにするんや。弱い者いじめをするな」と一喝して助けてやった。この当時は中学でも軍隊式のスパ
ルタ教育≠ェ入り込んでいて、部活動などで上級生が下級生を鍛えるためなぐったりすることは日常茶
飯時であった。でもこれはどの中学でも行われた一種の風潮であったから、岡本もこれに対しては「止む
なし」の態度を取ったが、単なる「いじめ」に対しては上級生といえども許さなかったのである。
  しかし、対外的なこと、例えば学校対学校の対抗試合、あるいは昔よくあった他校生徒との集団的なけ
んか(多くは退校時)などでは、リーダーシップを発揮して仲間の先頭に立った。

六呂師スキー場で
 (S12.1.24)
  当時の福商の正服は黒の背広上下(小倉生地)にネクタイ。黒やもえぎ色の詰襟りが
全盛期だったころだけに、この制服はまことにユニーク。非常に目立った。それが他校生
にはしゃくの種だったのだろう。とにかく、取るに足りぬことで他校生とのけんかがよくあ
った。
  こんなこともあった。それは夏のことである。某教師の授業があったときである。その教
師は新調の麻製の背広姿であった。その教師の授業はおもしろく生徒に人気もあった。
岡本もその教師は嫌いではなかった。にもかかわらず、その教師が岡本の横を通り過ぎ
たとき、手にしていた万年筆を振って背広の後にインクをぶっかけた。続いて悪友の一人
であるAが赤インクをぶっかけた。全くのでき心ではあった。しばらくしてこれに気付いた
教師は、頭に血がのぼったのであろう。かんかんになって怒った。犯人を見つけるためノ
ートを提出させた。まず赤インクの万年筆を使っていたのは誰かを割り出すためである。
その結果赤≠フ犯人はすぐばれてしまった。つまり、ノートに赤の万年筆で書き入れ
ていた生徒は一人しかいなかったからだ。万事休すである。
 「なぜこんなことをした」
 こう詰問されたが、犯人のAは返事ができなかった。どちらかというと好きな部類に入いる教師であった
し、なぜそんなことをしたのかAにもわからなかったからである。でき心以外に説明のしようがなかったの
だから答えようがない。だまってぶたれた。このときである。「全部私がやった」と岡本が立ち上がった。
もちろん青≠ヘ岡本がやったのであるが、彼はAの分も含めて罪をかぶったのである。
 「教員室へこい」と教師は二人を教室から連れ出した。教員室へ入いった途端敵意のある目≠ェ一斉
に二人に注がれた。「悪質極まるいたずらだ。許されん」という空気が充満していた。
こんな空気を察した岡本は「なぐったら承知せんぞ」とすごみをきかした。岡本のわんぱくぶりをよく知って
いる教師たちは一瞬ひるんだが、なんといったって場所が教員室だけに彼の方が歩は悪い。「しばらく学
校へくるな…」と叱られたり、後から頭を叩かれるなどした。
  「後から叩くとはなにごとか…」と威丈高になってはみたものの、多勢に無勢ではどうにもならない。
父親の三松も呼ばれた、三松は「まことに申しわけない」と平謝り、その教師の服を新調することを申し出
た。二人は停学処分を覚悟していた。でも、これだけのいたずらをしても教師の中にかばってくれた人もい
たのである。藤田寛、高佐幸二という二人の教師で「いたずらをしたい年ごろであり、できごころでやった
のだろう。でも君たちのやった行為は誰がみても好ましいものではないし、君たち自身も悪かったと思って
いるだろう。謝って出直しなさい」とかばってくれた。このおかげで停学を免がれたし、一件落着したのであ
る。
  しかし、岡本はこれにこりずにまたまた問題を起こした。インク事件のすぐ後に行われた軍事教練で三里
浜(現在は福井臨海工業用地)ヘ出かけたときのことである。練習のあと夕食をすませて、ひととき自由時
間を過ごした。あとは寝るだけ。午後九時になると消灯ラッパが鳴り電気が消された。鯖江三十六連隊の
三里浜兵合を利用したのだが、岡本を頭とするわんぱくグループは皆が寝静ったあとでまた悪だくみをした。
とにかく規則にしばられたり、理由なくして頭から押さえつけられるのを嫌う連中だから、指導する側にとっ
てはまことに始末が悪い。彼等数人は服に着がえて三国町の盛り場へ足を運んだ。
  その昔、北前船などが出入する港を持つ町で、港そのものにはそのころの面影は無かったが、町の盛り
場は結構にぎわっていた。港に近い、細い通りにバーなどが軒をつらねていた。岡本らは、その一軒のス
ズランというバーに入った。イガグリ頭の少年たちが教練服を着てビールを飲むのだから目立つのは当然。
「出て行け」という客はいなかったが、白い目でじろじろ見られた。さすがの岡本らは居ずらくなったのか、
ビールを開けると早々に引揚げた。
  しかし、このこともすぐにばれてしまった。タクシーで兵舎へ戻ったのと、ゴロ新聞の者に見られて福商の
生徒ということがわかり、学校へ投書がきたためである。
 また、校内は大騒さとなり犯人探しが始まった。学校側では「岡本らがやったのだろう」と、おおよその見

校庭内花だんで(左端が岡本)

卒業時の岡本
当はつけていたようで、探索の手はすぐ岡本らに伸び尻尾をつかまれてしまった。
  二度にわたる悪事だから停学処分を覚悟した。学校側でも停学を主張する教師が多かった。しかし、イン
ク事件で岡本をかばってくれた高佐幸二先生はこのときも必死でかばってくれた。「やんちゃだが、いい方
向に向かえばすばらしい人間になる。いま停学処分にするとますます反抗してぐれてしまう」と教師仲間を
説得すると共に、岡本の家を訪れて、ふてくさっている岡本に「学校や他人に迷惑を掛けることはたんなる
やんちゃではない。もうそろそろ、やんちゃを精算しては…」と、じゅんじゅんと岡本に言い間かせた。この
言葉に、感受性の強い岡本はすなおにうなずいた。高佐先生の、心からほとばしる言葉に感激したのであ
る。
  夏休みが終わり、ニ学期に入ってから岡本の態度はガラリと変った。学業に専念するようになったのであ
る。とにかく一学期は修身、体操、教練などはすべて丙だったのだから、いかに悪がき≠フ名が高かっ
たかを裏付けている。しかし態度を改めてからはこれらの科目が乙に。4年生からはほとんどの学科が甲
になり、高佐先生は喜んでくれた。そして卒業のときは優等賞を受けた。
 でも、理由なく頭から押さえつけられることに対しては、相変らず強く抵抗した。そしてこの性格が行動に
なって現れたのは5年生のときである。岡本がリーダーとなってストライキをしたのである。理由は、正当
な理由なくして生徒を抑圧したり、えこひいきの目立つ教師に生徒の不満が高まったために、岡本が立ち
上がったのである。
 登校はするが教室には入らずにスタンドに陣取った。そこで「○○先生出てこい」と大声でがなりたてる
ものだから、当の教師も学校側もあわてた。わんぱくではなく、抗議のためのデモンストレーションだから下
手に処罰できないし、ストを長びかせては校長が責任を問われる。結局、学校側が折れて話し合いがなさ
れ、短期間で解決した。もちろん、このストによって岡本は不利な扱いを受けることはなく、卒業時には優
等賞を得たのである。そして、校長をはじめ多くの教師が「万能の熱血児」や、それと同じような意味の言
葉をアルバムに書き入れてくれた。
 校内だけでなく、県下の辯論大会での優勝や柔道、あるいは他校生とのけんかなどで他校にもその名
をを知られていただけに、けだし的を得た言葉であった。抜群の成績で、早稲田大学へ推薦入学ざせてく
れることになっていたが、父親の要望もあって進学を断念し、家業を手伝うことになった。
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