岡本 等の歩んだ道

  福商を卒業した岡本は、岡本材木店の2代目として修業を積むため家業に精出した。岡本の父三松は、
大野郡下味見村(現美山町)の出身で、25歳のとき福井市日之出に出て独立した。明治37年のことで、
日之出町の地を選んだのは近くに工場があったからだ。開業後しばらくは苦労したそうだが、なかなかの
熱血漢で、しかも頭の回転も良く、岡本がもの心ついた時分には、県下一円はもちろん県外との取引を手
広くするほどになり、町内でもトップクラスの資産家になっていた。貸家も30軒も持っていた。
  まさに立志伝中の人であるが、単に金もうけに走るだけでなく社会事業にも熱心であった。
  地区の衛生組合長、区長を勤めたほか、昭和3年には福井市消防組第2部付属の日之出自警団を組
織して消防警備に尽力、感謝状を受けた。昭和8年の陸軍大演習の際には奉迎委員並びに衛生組合
員として、よくその任を果たし、それに対しても表彰されている。
  また郷里の下味見村に、消防車購入資金として当時(昭和8年)の金で400円を寄付し、知事、村長
から表彰されたのである。利益の一部を社会のために還元したわけである。
  その父はなかなかの美食家。とくに刺身が好きで絶やすことがなかったし、肉も食べた。しかも酒好き
で毎日晩しゃくを欠かしたことが無かった。その当時はまだ男尊女卑の時代で、刺身や肉を食べたのは
三松と息子の等だけだった。子だくざんのなかで、男は等一人だけだったのだから大事に育てたのだろ
うと思われる。でも美食家の三松は昭和13年の暮ごろから体調をくずした。糖尿になったのである。
 糖尿は美食家に多い。消費エネルギー以上にカロリーを摂取することが原因だからで、三松の場合、
好きな酒をやめなかったことが糖尿病を促進ざせたようである。そこで、岡本が父の指導を受けながら次
第に店の切り盛りをするようになった。福商在学中から材木を荷車に積んで春江あたりまで運んだことが
あるほか、材木がヒビ割れしないように、陽ざしの強いときは材木にムシロをかけ、雨になるとムシロを外
して小屋に片付ける作業などをした。
 卒業して1年後の昭和13年暮のことである。米松町にある知人の弟が大阪で成功し、麻生津に5間×
27間の工場を建てることになった。父親が体調をこわしているため若干19歳の岡本が工場の入札に加
わった。知人というよしみもあったが、彼の見積りがしっかりしたものだったため落札した。完成して引渡
すのは翌年の6月。建築は建築主の依頼でA設計事務所が設計し、大工たちが建設作業に当たった。
材木はいうまでもなく岡本材木店から出荷されたものである。「なんとしても喜んでもらえるものを引渡した
い」。岡本は毎日のように現場へ出かけ大工らの作業を眺め、ときには注文をつけた。いよいよ建前の日
を迎え、景気のよい槌音が響いて、大きな工場が目の前に姿を現した。「やれやれ」と岡本は胸をなで下
した。ところがである。屋根の瓦を葺いてしばらくすると工場に傾きが出てきたのである。これには岡本も
腰を抜かすほど驚いた。「やり直しか」と頭を抱えた。大工たちに「なぜか…」と迫っても、大工たちは「うら
らは設計通りにやったんだけど…」と首をかしげるだけで原因はわからない。そこで岡本は、B設計事務
所に点検を依頼した。このままでは金をもらえないばかりか、ノレンに傷がつくからだ。両親に打ち明ける
わけにもいかない。心配をかけたくなかったからだ。
 B建築士は、岡本の言葉を聞いて設計書を点検した。その結果、設計書にミスのあることを発見した。
さっそく発注者にこのことを報告してミスを認めさせ、瓦をはずして骨組の一部を手直し、完全なものに仕
上げた。予定の6月よりは遅れたが、無事手渡しを終え、11月に工事費も手にすることができた。病床
の三松は岡本の報告を間いて「そうか。よくやったのう。」とほめてくれた。口数が少く、厳しい三松では
あったが、20歳(昭和14年)という若さでこれだけのことをとにかく一人でやりとげたことに満足したので
ある。「もう店のことは等にまかせてもなんとかやっていくだろう…」。三松は安心したのか、岡本から工
事費を手にしてしばらく後の11月14日に死去した。62歳の若さであった。
 父の死去1ヶ月後の12月、岡本は陸軍の鯖江36連隊へ入営することになったわけだが、入営間近に
なって木材統制今で個人営業ができなくなった。県地方木材株式会社が設立され、県内の個人企業主
は新設の会社員となったのである。在庫は国が買上げてくれた。父の葬儀、店じまい等、若干20歳の
岡本はてきぱきと片付け、母のことを姉に託して軍隊の門をくぐったのである。
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