岡本 等の歩んだ道


入 営
 昭和14年12月10日、岡本は9師団の鯖江36連隊へ入営した。
20歳のときである。
12年に支那事変が勃発、これをめぐって米英ソなどと緊張状態が続き、
国内は軍事色に塗りつぶされていた。14年の4月には満ソ国境で関東
軍とソ連軍が戦火を交え、9月まで続いた国内では産業報団運動、国民
徴用令(国が必要に応じて軍需産業などに徴用するための勅令)あるい
は女子の徴兵検査まで実施され、まさに国内は軍事色に塗りつぶされた。
支那事変を正当化するために、東京で村支同志会主催の「英国排撃市
民大会」が開かれ、新聞各社も共同でつぎのような宣言をした。
 対英共同宣言
 英国は支那事変勃発以来、帝国の公正なる意図を曲解して援将の策動を敢てし、今に至るも改めず、
為に幾多不祥事件の発生をみるに至れるは我等の深く遺憾とするところなり。
 我等は聖戦目的達成の途に加えらるる一切の妨害に対しては断乎これを排撃する固き信念を有する
ものに対して、今次東京会談の開催せらるるに当たり、英国が東亜に於ける認識を是正し、新事態を
正視して虚心担懐、現実即したる新序建設に協力、以て世界平和に寄与せんことを望む。
   昭和14年7月15日
報知新聞社
東京朝日新聞社
中外商業新聞社
大阪朝日新間社
国民新聞社
東京日日新聞社
同盟通信社
大阪毎日新間社
読売新間社
都新聞社

 この宣言が自主的なものであるかどうかは知る由もないが、マスコミの報道によって、戦争遂行に国民
が奮い立ったことだけは事実である。
 このような社会環境下の入営だったわけで、岡本自身は大いに張り切っていたが、岡本家にとってはた
いへんなことだったのである。母の「みつ」は口にこそ出さなかったが「等いなくなったらどうしたらいいんか
の−」と悩んだ。入営の直前、夫の三松、つまり岡本の父が病で亡くなったためと、入営したらいずれは戦
地へ行くだろうし、そうなれば生きて帰れないことだってあり得るだろうと考えたからである。事実、未亡き
あと、岡本家の大黒柱は息子の等であったし、若いながらも父三松の入院中は父に替って家業を立派に
守った。知人の弟さんが昭和13年、福井に軍需工場を建てることになり、岡本は入札に加わり落札した。
5間に27間の工場で、受け渡し期間は昭和14年6月。当時20歳の岡本にしてはたいへんな仕事である。
完成を前にして屋根部分にクレームがつき、手直しをせわばならないという不側の事態でもあったが、すべ
り込みで納期に間に合わせ責任を果たした。父の三松は、頼りになる息子に目を細めたが、病状は思わし
くなく14年の11月14日に亡くなった。62歳であった。「人生50年」と言われた時代ではあったが、まだま
だ第一線で働ける年令だった。
 悲しみのうちに葬儀をすませた岡本は、あと1ヶ月後に追った入営を前に、店のことや、軽いながらも中風
になった母親の世話をどうするかなどについて転手古舞の日々であった。やっと21歳になったばかりの青
年にとってはかなりの重荷だったが、岡本はてきぱきと問題を処理していった。
 まず店のことであるが、入営間近になって、木材統制今が出て個人では木材の商売をすることができなく
なった。代りに福井県地方木材統制会社が発足、木材の取扱いは同社に一本化されることになった。その
かわり、在庫の木材は国が買上げ、市内の木材屋店主はみな福井県地方木材統制会社の社員に雇用さ
れた。
 母親については、武生に住む上から4番目の姉がめんどうを見てくれることになった。
 「これで安心して入営できる」
 ほっとした岡本は、入営一週間前の12月3日に上京した。目的は元首相の岡田啓介海軍大将邸を訪れ
るためである。岡田啓介は福井市の出身。総理時代の秘書官で、昭和11年の2・26事件に岡田啓介と
間違えられて殺害された松尾伝蔵大佐は岡本宅の近くで、父の三松はこの二人とよく知っ合った仲間だっ
た。三松が死去したときに、岡田啓介から丁重な弔電があったのはそのためである。そのお礼と入営を報
告し、合わせて巻軸の巻頭書を依頼するために岡田邸を訪れたわけである。東京に姉が嫁いでいたとはい
え、お札を兼ねて巻頭言を依頼するという発想には驚かされる。とても21歳の若者のすることとは思えない。
 杉並区の姉の家でひと休みした岡本は、淀橋区角筈町の岡田邸に出かけた。海軍大将で、元総理大臣
だった人だけに、さぞかし豪邸だろうと想像をたくましくしたが、案に相違して実に質素。せいぜい数10坪の
屋敷。そこに30坪ぐらいの家があって、道からすぐのところが玄関になっていた。して、前官礼遇で、身辺
警護の警察官が常駐していた。サーベルを下げ、鋭い目であたりを睥睨していた。不審な者は直に取り押
さえるという構え。かなりの威圧感があった。岡本も当然警官の検問を受けた。
「何の用事か」
「はい。父親の葬儀に際して弔電をいただき、そのお札と入営の報告をしたくてきました」
「ほう。どこの誰だ。閣下にお伝えする」
 こんなやりとりの末、玄関左の脇入口から控え間に通された。案内してくれたのは、2・26事件当時、首
相官邸に勤めていた50代後半の元警察官で、東北の出身。ズーズー弁で聞きにくい言葉だったが、人な
つっこく世話好きのタイプ。若い岡本にお茶を出してれ、岡田啓介が先客との用談をすませるまでの間、話
し相手になってくれた。
 30分ほどすると玄関の右にある応接間に通された。そして岡田啓介が、和服に袴をつけて姿を見せた。
さすが一国の首相になる人物だけに風格が備っていた。温顔ではあったが、姿全体に古武士的な威厳が
あった。岡本は椅子から立ち、直立不動の姿勢で威儀を正した。そして弔電へのお礼と、入営の件を報告
した。
 うなずいた岡田は「若くして一家の大黒柱を失ってたいへんだな。軍隊生活は厳しい。がんばってほしい」
と岡本を激励した。
「ありがとうございます」
 一礼した岡本は「ついては一つお願いがございます」と言葉を続けた。
「ほう。どんなことかな」
「はい。実は巻軸に巻頭書きをお願いしたいのです」
 岡本は持参した巻軸を見せた。2本で、1本は岡田の義弟で総理大臣時代の秘書官だった松尾伝蔵大佐
(2・26事件のとき反乱兵に射殺される)から父あてにきた封書。他の一本は松平春岳、中根雪江、由利公
正の書翰をまとめて軸にしたもである。岡田は快く引き受けてくれ「明日取りにくるように…」と言った。そして、
松尾伝蔵の巻軸には「香義魂」、他の方には「開巻加敬虔」と記してくれた。これらは今なお岡本家の家宝と
して大切に保存されている。
 岡本が鯖江30連隊の門をくぐったのは5日後の12月10日であった。
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