岡本 等の歩んだ道

 昔の軍隊を経験した人ならあえて説明する必要はないが、初年兵教育というのは陸海軍を問わずまことに
厳しかった。苦しみに耐え続ける精神と肉体を鍛え、強い兵隊に仕上げるためである。「勝敗は最後の白兵
戦で決まる」−当時の軍隊にはそういった考え方があった。兵器のレベルが現在とは比較にならぬほど幼
稚だったのだから無理もない。この考えは、支那事変までは通用したが、日米戦争では通用しなかった。当
初こそ相次ぐ奇襲で勝利を収めたが、アメリカが態勢を立て直し、電波探知器や、B29といった超高性能の
爆撃機を開発したことによって形勢を逆転、原子爆弾(まことに非人道的な手段であった)で日本のとどめを
ざしたのは周知の事実。
 そのことはさておき、日の丸の旗の波に送られて入営しだ岡本は、早々に厳しい軍隊生活を経験するので
ある。鯖江連隊は鯖江町(現鯖江市)の国鉄鯖江駅(北陸線、現在はJR西日本)からほど遠くないところに
あった。格子戸で2階の低い家並が続く落着いた町で、連隊があった関係からか宿屋も結構あった。それも、
どちらかといえば、時代物映画に出てくる旅篭といった感じの宿である。
 36連隊の脇坂部隊は、昭和12年勃発した支那事変(日中戦争)で南京城攻撃に当たり、12月12日正
午ごろ光華門並にその東方城壁を攻略し、一躍有名になった。そして光華門一番乗りを果たしたのが、同部
隊小隊長だった山際少尉。したがって県民は同連隊の存在を大きな誇りにしていた。とにかく国民のほとん
どが聖戦なる言葉を信じ「勝った、勝った」の報道に酔いしれていた時代なのだから無理もない。英雄の如く
名をはせた山際少尉は昇進して中尉となり、原隊に復帰、中隊長として初年兵の教育に当たっていた。
 当時の鯖江連隊は兵営内に、営庭を取り囲んで大きな2階建兵舎が4棟あった。それぞれの兵舎の中央
が出入口になっていて、入ってすぐのところに中隊事務室や将校室があった。このほか連隊本部、炊事舎な
どもあった。このほか連隊本部ペ−スに「酒保」と名付けられた売店があって、マンジュウ、ゼンザイ、ウドン
などのほか、ハミガキ粉や歯ブラシ、手拭、便箋などの日用品が売られていた。タバコもあった。日曜と週2
回の演習のあと利用することが許され、兵隊にとってはなによりの楽しみだった。
 兵舎内は縦に廊下が走っていて、その両側に部屋が並んでいる。営庭に面した部屋が「舎前」向いの部屋
は「舎後」と呼んだ。この舎前と舎後はなにかにつけて比較されたり、互に競争しあったりさせられた。ひと部
屋は16人くらいでこれを内務班といい兵隊生活の基本になる。部屋のなかは寝台が八つぐらいずつ左右に
並べられ、そこに頭を内側にして新兵、古年兵と交互に寝る。つまり、新兵は古兵にはさみうちされた形だ。
両者の関係は、兄弟のような関係。新兵は兄貴に対して巻脚絆をはずしたり、靴を磨いたりしなくてはいけ
ない。その代わり古兵も自分の世話をする新兵をかわいがった。とはいっても古兵のタイプはさまざま。新兵
が夜間演習でへとへとになって帰隊したときなどは毛布を敷いてくれる人がいるかと思えば「おれも新兵のと
きはこき使われた」と、ひとつ聞違えば弟分の新兵をぶんなぐるものもいた。
 さて、新兵さんには入隊と同時にいろいろなものが支給される。
 まず、被服類だ。軍依(軍服)、軍袴(ズボン)夏冬の正装用と普段用とそれぞれ一着ずつ。じゅばん、股下
二着ずつ。靴下、襟布、軍帽、略帽(戦闘帽)、鉄カブト、外套、雨外被、巻脚袢(ゲートル)など。
 はきものは、革の上靴(スリッパ)、裏革かズックの営内靴。革の編上靴。
 洗濯石鹸は支給されたが、ハミガキ粉、ハブラシ、手拭、フンドシは私物であった。
 寝台には、ワラぶとんが敷かれ、その上に毛布(中古)が、敷布、掛けぶとん替りにするため乗せられてあ
る。足側にある整理棚には、貸与された本箱(高さ30a、幅20a)に、典範類・勅諭集、軍歌集、私物の便
箋などを入れた。手箱の横に背のう、雑のう、水筒、飯ごう、携帯天幕。
 食器はめし用、汁用、おかず用、湯呑。これらはオールアルミ製で袋に入れて吊るした。
 銃は歩兵銃で、菊の御紋章といっしょに番号がついていた。剣はゴボウ剣で、帯革につけて吊るした。
 さて、軍隊生活(陸軍)のことを理解するためには、まず知っておくべきことがある。それは軍隊だけに見ら
れるシゴキである。
 入営すると1日目には歓迎会というか、入営を祝ってくれて、おかしらつきの魚が出る。翌日には古兵が、
支給品の管理方法や、ことばづかいから食器の洗い方などを手とり足とり教えてくれる。なにもかも初めて
のことで、洗濯セッケンは縦に立てて使うということも知らされる。
 「軍隊は恐しい」というイメージを持って入営した新兵の多くは古兵や分隊長が薄気味悪いほどやさしいの
にとまどうほど。
 だが、これは嵐の前の静けさと同し。しばらくすると本性がむき出しになる。3日目ぐらいになると、もそもそ
食事でもしていようものなら「貴様ら、いつまでお客さん気分でいるんだ!」と古兵たちががなり出す。
 これを楽しみに待っていたんだから始末が悪い。彼等だって、新兵さんが入るまでは先輩にシゴかれてき
たので、これからはそのお返しの時期到来というわけだ。
 突然のがなり声に、新兵たちがあぜんとしていると、味噌汁をご飯にぶっかけられた。早く口の中へかき込
めというわけだ。そしてほどなくすると、はやめし∞はやぐそ≠ェいかに必要かを思い知らされるのであ
る。軍隊生活を経験した人は、若い人でも六十歳を越えているが、例外なくといってよいはど食事の時間が
早い。食卓の上のものをあっという間に平らげてしまう。岡本もそうだ。戦後数10年を経たというのにはやめ
しのクセが抜けない。軍隊後遺症というべきか。
 さて軍隊では、リンチともいうべき暴力は禁止されていた。だがそれはあくまでタテマエで、暴力は日常茶
飯事。革のスリッパで顔をなぐられ鼓膜を破ったというケースなどもみられたが、上官はたいていの場合、知
らぬふりをした。なかには規則に厳格な人がいて、リンチの現場を通りかかり加害者をその場でぶんなぐる
上官もいた。
 しかし、暴力を伴わないシゴキは許ざれていたようだ。普遍的というか、よく知られているのは@バケツ下
げ(昔の小、中学校でもあった。水をいっぱいにしたバケツを両腕にさげて立たされ、力つきて手を放すと廊
下は水浸しになる)A自転車(2つの寝台の間に立ち、両方の寝台に手をついて、寝台と寝台の間に体を
浮かせて自転車をこぐまねをさせられる。そんなに高さがないので脚を持ち上げるだけでも容易ではない)
Bセミ(廊下側の柱にしがみついて「ミーン、ミーン」と声を出させられる。「ほら声が小さい」とからかわれた
り、疲れて柱から滑り落ちると「おい、秋はまだこないぞ」と、もう一度柱にしがみつかされる)Cウグイスの
谷波り(寝台の下をくぐり、頭をあげて「ホーホケキョ」、次の寝台の上を越え、さらにその次の寝台の下をく
ぐって顔を出して「ホーホケキョ」と言わされる)。そのほか、引金落としといったものもあった。リンチにくらべ
ると、いびりとはいえ一種のユーモアがあった。もちろん、やらされる方はたまったものではないが…。それ
にしても軍隊にはヒマ人がいるとみえて、いろんなことを考え出したものである。
 しかし、やられた方もそのままではいない。食時どきに膳をそろえて下士官室へ運ぶ際、めしの上や、味
噌汁の中ヘフケをたっぷり落とし込んだ。上官には面と向かって反抗できないためこのような形で復讐した
わけだ。
 以上、軍隊生活の一端を述べたが、初年兵にとって、将校はもちろんのこと、古参兵や下士官ですら近寄
っがたい存在。右を向いても左を向いても挙手の連続であった。しかも三十六連隊の上官たちには、支那事
変に加わって砲火を交えた人たちが多かったのだから訓練は極めて厳しかった。
 平常の起床は朝6時。就寝は夜9時となっていたが、新兵さんには、この原則が守られるのはまれ。朝
4時に叩き起こされ、凍えるような寒さのなかで、実戦に備えた厳しい訓練を受けることはしばしば。7〜8
時ごろ兵舎に戻って兵器の手入れ。それが終わって朝食というわけ。それも極めて粗食。大豆めしにみそ
汁。あるいはサツマイモだけということもあったという。しかも、量が少ないのだから食い盛りの初年兵たち
は腹が減ってしようがない。寝てもさめても「食べたい、食べたい」の思いにかられていた。岡本も当然その
一人であった。
 昭和15年1月、夜間演習のあったある日のことである。1b数十aの大雪で、しかも外は、しんしんと
音もなく雪が降っていた。鍛える側にとっては、絶好の条件ぐらいに思っていたのであろうが、鍛えられる
側の新兵さん≠ノとってはたまったものではない。手はかじけるし、雪を踏みしめている足元は時間の
経過とともに冷えてくるし、軍服も降りかかる雪で白くなり、湿ってくる。
 「なんでこんな目に合わねばならんのやろ」
 多くの新兵はそう思った。もちろん岡本とて例外ではなかったが、それでも彼の場合は予備士官学校へ
進んで将校になるんだという夢を持っていたし、校内に知人がいてなにかと気配りをしてもらえるという恵ま
れた環境にあった。
 彼を担当する古兵もやさしかった。実の弟に接するような態度で人間的な温みを持っていた。大雪の練兵
場で岡本ら新兵が訓練を受けている間に、その古兵は、岡本がすぐ寝れるようにとふとんを敷いてくれてい
た。吹雪になると雪が舞い込んでくる古ぼけた兵舎だが、兵たちにとっては横になって睡眠を取れる憩いの
場なのだ。あるとき、岡本係りの古兵は「岡本は腹を減らして帰ってくるんだろうな」と洒保で買ってきた大
福モチをふとんの間に入れ、彼の帰りを待った。
 へとへとで兵舎に戻った初年兵たちは兵器の手入れなどをすませたあとベッドイン、古兵に狭まれて眠り
についた。
 担当古兵の目くばせで大福モチの存在に気付いた岡本は、頭から毛布をかぶり気付かれないように大
福をほおばった。でも、入隊以来満腹感を味わったことがないのと、見つからないうちに速く食べてしまおう
とあせったためか、食べる音が洩れたようだ。とにかく食べ盛りの若者たちが腹ぺこをがまんしながら枕を
並べているのだから一種独特の勘が働いたのかも知れない。
「誰かなにか食べてるぞ…」
 嫉妬心の固まりを声にしたような大きな声が兵舎内に響いた。
「全員起床」。緊急点呼が実施された。岡本はアワを食った。呑み込んでしまおうかと思ったが、最初にパク
ついた分が口に残っている。それを呑み込むのが精一杯。あとはふとんの中に残して起床せざるを得ない。
 班長の命に従って古兵が毛布をめくっていく。もう逃れることはできない。
「あったぞ。ここに寝ていたのは誰だ。出てこい」
 班長の鋭い声が響く。
「自分であります」
「おお!お前か。ここには時間外にものを食ってもよいという規則があるのか」
「ありません」
「ないのになぜやった」
「はい…」
 岡本は言葉に詰った。悪いことを承知でやっているのだし、班長も「恐らく古兵が買って与えたのだろう」と
察していたが、古兵を叱ることはしなかった。追及されるのはもっぱら初年兵の岡本だけだった。岡本を責め
ることによって他の初年兵の見せしめになるし、関接的に古兵を反省させる効果もあるからだ。
「だまっとったらわからん」
「はい。自分が悪かったのであります」
 岡本は直立不動の姿勢でこう答えた。岡本は如何なる追及を受けても、大福モチを与えてくれた古兵の
名は口がさけても言わないと腹をくくった。彼にしてみれば班長が「誰からもらった」と追及してくるに違いな
いと思ったからだ。
 でも案に相異して「悪いことと知ってなぜやった」と鉄拳が飛んできただけだった。痛かったが古兵に塁を
及ぼさなかったことに彼は内心ほっとした。
「他の班を回って謝ってこい」
「ハイ!」
岡本は、指示にって他の班へ足を向けようとしたところ「ちょっと待て…」の声で振り向くと、班長に手招きさ
れ、毛布を頭からかぶせられ、食べさしの大福モチを手にもたされた。つまり、毛布にもぐり込んで大福モチ
をパクついた姿(横臥)を再現(立像)させられたわけである。
 岡本にとっては耐え難いような屈辱を受けたわけで、歯を喰いしばりながら各班を回り頭を下げたのである。
 でも、鯖江連隊における岡本は、先にも述べたように他の初年兵にくらべると恵まれていた。酒保には福
商時代の後輩がいて、岡本によく気を使ってくれた。初年兵の間はとにかく自由がきかない。腹が減ったか
らといって、自由時間に酒保へ行って腹を満たすなんていうことはできないのである。
 そこで、酒保にいる後輩が岡本の姿を見かけるとさっと近寄ってきて、アンパンや大福モチを軍服のポケ
ットに突っ込んでくれた。受け取った岡本はトイレに飛び込んですばやく腹の中へ入れた。代金の方は母親
の「みつ」がまとめて払ってくれたのである。
 また彼は初年兵の間、衣類の洗濯をしたことがない。なぜなら知合の普神准尉が岡本家と付き合いがあ
り、当時、岡本家の近くの実家から連隊へ通っていたため、洗濯ものを母親にことづけることができたからで
ある。さらには、福商時代の配属将校だった島田中尉も第一大隊の大隊副官として駐在しており、なにかと
目をかけてくれた。岡本自身の利発さもあったが、母親が陰に陽に、息子可愛さの一念で動いてくれたから
である。
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