等の母「みつ」は明治14年7月生まれ。等が入営したときは59歳になっていた。等は8人の兄弟姉妹
(兄は幼なくして死亡)の下から3番目。 「みつ」が38歳のときに生まれた子だった。 年が大きく離れて
いるし、当時、岡本家の男は等だけだったので、「みつ」は等を頼りにしていたし、可愛がった。

岡本の母「みつ」
 その等が入営したのだから、お国のためにと、日の丸を打ち振って送ったも
のの、淋しさと不安に包まれた。ひょっとしたら生きて戻ってくることはないか
も知れないことだって考えられたからだ。
 当時は支那事変の最中でまさに戦時色一色。ネオンが盛り場から消え、白
米の使用が禁止された。 また国民精神総動員委員会が設置され、食糧報告
運動、ぜいたく全廃運動、直接戦争協力運動(兵器献納、貯蓄、国債消化)な
どが進められていたの運だから無理もない。
 そこで「みつ」は、面会の許されるときには必ず等に会うことを心に決め実行
した。面会日は原則として日曜日である。鯖江連隊の面会場所は、衛兵隊の
近くの藤棚の下であった。 訪問者の印象をよくするためか、そこはこぎれいで
あった。面会のときだけは煙草をすってもよいことになっていたが、食物はもらってはいけないことになっ
ていた。兵隊にとっては、その食いものが一番のお目当なのに、それがだめだというのだからつれない
話だ。
 でも、親、兄弟というのは、いかに「だめ」と言われても、持物を1つ1つチェックするわけではないから、
オハギや大福モチなどを持ち込む。兵隊は見つからぬようにしてノドヘ押し込む。とても味わっている暇
などないのである。岡本の場合も例外ではなかった。
 日曜ごとに面会が許されるといっても、当時の交通事情や経済事情などから毎日曜に面会に訪れる
人は、「みつ」以外に見当らなかった。当然、隊内、それも岡本の所属する第二中隊(中隊長山際喜一
大尉)では「みつ」の存在を知らない人はおらないほどになった。
 「みつ」は、いわゆる昔人間=B夫によく仕え、そしてよく働いた。「働くことが人生だ」とよく口にした
という。 岡本は、幼ないころ手のつけられないほどの腕白っ子だったが、母親に叱られた記憶がないと
いう。 肝っ玉が太かったのか、あるいは、たくさんの子育てで「等」の場合は叱っても効果の無いことが
わかっていたのかも知れなかったかのいずれかだが、岡本の説明では恐らくその両方だっただろうとい
う。
 「みつ」は昭和5年、中風で倒れて以来手足が不自由であった。 でも「みつ」はそれを全く意に介せな
いかのように動き回った。日曜ごとに鯖江連隊にまで足を運んだことがそれを裏付けている。
 こんなこともあった三里浜(現在の福井臨海工業地帯)で大隊訓練があったときである。この訓練は初
年兵の一期検閲が終わった直後に実施されるもので、鯖江の連隊から福井−大安寺−布施田−新保
(三里浜)まで行軍した。岡本はこのことを母親に知らせなかったのに、「みつ」はどこで耳に入れたのか、
福井から同居していた姉(4女)の矢佐芳子と共に行軍の後についてきた。 不自由な足を引きずりなが
ら歩くのだから、 ご本人にとってはたいへんなことだったと思うが、息子可愛いさの一念で歯を食いしば
ったのだろう。岡本は当時を偲び「あの不自由な足でよくもついてこられたものだ。 超人的、神がかった
としか思えなかった。でも、ひたむきな母の姿にどれはど励まされたことか…。厳しい訓練に耐え幹部候
補生に合格、予備士官学校で教育総監賞を授かったのは、母親のために頑張らねばという意識が頭に
こびりついていたためだった」と述懐している。
 その母「みつ」と姉は、 小休止があると姿を隠すので、 岡本自身は最初気が付かなかったが、姿を見
つけた戦友や古兵が岡本の方を見てにやにやする。 なかには目で 「母親がきているぞ」と知らせてくれ
た。彼等は鯖江連隊で母の顔をよく見かけ知っていたのである。布施田まできて昼食になったとき、よう
やく母と姉が姿を現し「洗濯物があったら、今洗うから出しないの」という。 「きょうはない。心配せんでい
い。疲れるでもう引返しないの」。岡本は母に感謝の気持を込めそう述べた。
「ほうか…。」
 わずかな会話ではあったが、「みつ」は息子の元気な姿に安心したのか、中隊の将兵たちに頭を下げ、
来た道を戻っていった。 でもこのひたむきな「みつ」の姿は、 戦友や上官の心に響いたのか、山際中隊
長は、平素の精神訓話の際に「わが子はもちろん、中隊の兵隊を可愛がる岡本等の母親はまさに軍
国の母≠ナある」とほめたたえたのである。山際中隊長は岡本の母「みつ」さんを通じ、岡本の存在を知
ったというほどだから、「みつ」さんの名がいかに知られていたかが想像できる。
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