| 岡本は木材関係以外にも、いろいろな団体のリーダー |

福井市日之出小学校へ土俵を寄付し、
大相撲十両の福の海(福井出身)を招き
土俵開きを
した (昭和33年) |
| に就任している。 それも自ら求めたものではなく、すべ |
| て乞われて就任したものである。 軍隊時代に培われた |
| 指揮官としての能力が、戦後から今日まで、岡本の人 |
| 生に大きな影響を与えたといえる。とにかく20代後半か |
| ら70になるまで、団体の役員や長を勤めているというこ |
| とは、 能力だけではなく、高邁な人格によるものと言っ |
| てよい。 |
| 彼が関係団体以外の役員ポストについたのは昭和33 |
| 年4月である。日之出小学校のPTA会長に選ばれ2年 |
| 間就任した。そして就任の年、同校へ土俵を寄付、当時 |
| 十両だった本校出身の福ノ海を招き土俵開きをした。 |
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| 長男が成和中学へ入学した昭和35年から2年間は成和中学のPTA会長、
そして昭和38年から2年間 |
| は日之出社会教育会長をした。岡本の父三松も生前にこのポストに選ばれており、父子2代にわたっ |
| て日之出地区の社会教育推進に貢献したことになる。 |
| 日之出地区に関してはこのはかに体育振興会会長、交安全推進協議会会長を歴任。 |
| 交通安全関係では地区の会長のみではなく、昭和49年6月から59年6月末まで県交通安全協会連合 |
| 会会長をつとめ、 その間に運営の欠陥を指摘、任期中に協会の組織と運営管理を強化、財政的な基 |
| 盤を確立した。さらに、県や県警と協力して交通事故防止に努力、47年から5年連続減少を達成した。 |
| さらに52年には、歩行者、自転車利用者、とくに子供と老人の保護を最重点とした「6年連続交通死亡 |
| 事故の抑止」を年間のスローガンに掲げ、ついに6年連続減少という大きな業績を残した。 |

交通安全で総理大臣表彰を受ける岡本
(昭和56年7月10日) |
県の各種審議会の委員にも名を連ねた。なかでも収用委員会 |
| については昭和49年から委員。62年7月からは会長代理として、 |
| 収用案件の処理と会の運営に努力した。特に昭和55年の国営 |
| 坂井北部土地改良事業、農業用水施設工事および新江用水路 |
| 付替工事ならびに、 これらに伴う付帯工事に関する審理、
明け |
| 渡し採決などにおいて、多忙きわめる木材業務の中から、
冷静 |
| な判断力と広い視野をもって精力的に取り組み、事業の推進に |
| 大きく寄与した。また、建設省所管国有財産管理や県単独事業 |
| などでの紛争についても、 適切な助言と指導を与え
、円滑な管 |
| 理や紛争の処理、 処分が行われたことについての功績が認め |
| られ、昭和63年7月に建設大臣から表彰された。 |
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| 企業関係では、フクビ・ミカタ工業株式会社、日刊福井新聞社、ユアーズホテル等の取締役に名を連 |
| ねている。 |
| このはか、 県木材産業政治連盟会長、全国同連盟副会長の要職にもある。木材関係業者の地位向 |
| 上と産業の育成を政治の場に反映させてもらうのと、
業界の立場を理解してくれる政治家を育成するこ |
| となどが目的。 幅広い人脈を持ち、さらに説得力と将来の展望を持つ岡本以外にないということで昭和 |
| 57年以来、県の会長と、全国副会長の座を今日まで続けている。これも決して自ら求むめたものではな |
| く、組合員の要請によるものである。 |