| 県木材組合連合会、県木材協同組合連合会、そして県木材市売協同組合のリーダーとして欠かせない |
| 存在になった岡本は、その力量を買われて多くの関連事業に関係した。買われたというより、
乞われたと |
| いった方が適切かもれない。 |

「福井の家」を案内する岡本 |
〔木造住宅建設の推進〕 |
| 日本の気候・風土に合った木造住宅の需要を増やそうというのが目的で、 |
| 岡本は戦後材木業を再開して以来、機会のあるごとに木の良さを強調し |
| てきた。 しかし、 経済の繁栄で暮らしが向上するのに平行して鉄筋、鉄 |
| 骨など非木質系住宅の進出が目立ち始めたので、
これに対抗して木の |
| 良さを知ってもらおうというもの。そこで、昭和56年から国・県の助成で、 |
| 木造在来工法住宅の展示事業を福井市森田団地(2戸)、丸岡グリーン |
| 団地 (6戸) で実施、 同時に一般消費に対し福井市森田団地86戸、丸 |
| 岡グリーン団地44戸を木造住宅として建設し、木造住宅の良さをPRした。 |
| また福井臨海工業地帯に誘致された古河アルミ工業株式会社福井工場 |
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| 社宅35戸を木造住宅で建設するなど木造住宅建設を促進した。 |
| なお昭和44年4月に設立された「福井木材団地協同組合」
の理事に就任、同組合の事業として福井市 |
| 高屋地区に木造住宅団地を造成した。 住宅は
200戸を 1、2、3期に分割して、木材業界優先方式で住 |
| 宅を建設した。 これらの住宅は、 県産材を利用したが、これについても岡本は「県産材は本県の気候
・ |
| 風土に適応して育っているから、木造の場合は県産材を利用するのが最も良い」という信念を持っており、
|
| これまた公私の場を問わず、機会あるごとにPRしているし、今もそれを続けている。 |
| 〔木材業界の拠点施設の整備と業界紙の発行〕 |
| 県内の木材業界は、 木材需要の減退、 価格の低迷等によって長期不況下に見舞われているなか、業 |
| 界一丸となって不況打開策として、組織の育成強化、木材業界の拠点施設の整備が急務であった。 |
| そういったことから昭和56年、 永年の念願であった福井県木材会館を福井市下六条町に建設し、
木材 |
| 業界が一堂に会し会議研修の場として拠点施設を整備した。また、木材組合員に対する情報交換に当た |
| っては、日本木材備蓄構からの速報を含めた業界機関紙を昭和55年4月15日に福井木材新聞として月3 |
| 回 (毎月5、15、25日)発刊し(毎回千部)、所属組合員に情報伝達をするとともに県木連支部を中心に木 |

中川知事も出席した木材会館落成祝賀会
(昭和56年) |
材組合員の資質向上発展に寄与した功績は高く評価されている。 |
| 昭和63年4月15日から 「木連だより」 と名称を変更し、内容の充実を |
| 図るなど全国的に類がない事業を実施し、 地元の機関紙として定着 |
| させた。そして、創刊以来随筆を担当。 一回も欠かさず健筆を振って |
| いる。 |
| 〔木材業の再編や製材工場対策〕 |
| 県内製材業界の過剰供給体質改善のため、
過剰設備の廃棄、生 |
| 産方式の合理化等を骨子とした製材工場対策を打ち出し、本事業を |
| 実施するための基本計画の作成指導をはじめ、
県知事への認定申 |
| 請事務、基本利子交付申請事務など、同事業の円滑な実施に貢献 |
| した。 また県産材振興のために一円の融資を働きかけ実現した。 |
|
| 昭和54年億に国がこの制度(国産材産業振興資金)の先取りといってよく、ここでも岡本の先見性がいか |
| んなく発揮されている。 |
| 〔製材業労働環境の改善〕 |
| 製材業界の労働力不足の解消や、高齢化に伴う労働災害の防止に努めるとともに労働条件、労働環境 |
| の改善についての施策の充実、指導強化をはかるなど、労働安全面で各支部を通して周知徹底を図り、 |
| 大きな成果を収め、昭和63年7月には労働大臣表彰を受賞した。 |
| このように木材業界につくした功績はまことに大きく、昭和46年以来、今日なお県木材協同組合連合会 |
| 理事長、福井県木材組合連合会長として業界のために汗を流している。実に19年にわたっているわけで |
| 彼の存在がいかに大きいかを裏付けているといってよいだろう。 |