この年の12月、福井市木材商組合が復活した。岡本らが業界の長老たちに強く働きかけた結果実現
したもので、同組合は統制令でいったん消滅したため、新しく設立する形を取った。
 設立総会は12月11日。現福井市役所敷地内にあった福井警察署の2階に業者39人が集まり開いた
のである。警察とは全く無縁の業界が、警察署の2階で総会を開くなんてことは常識的には考えられな
いことだが、当時はこれだけの人を収容できる施設は無かったのである。
 総会では規約、役員などを決めたが、岡本らは役員人事に強い不満を持った。理由は、 人事が一部
の人たちによってひそかに決められていたということと、 役員に機屋や風呂屋などから転換した人の名
があったからである。 「業界の内部事情を知らない人が役員になって、呆たして組合をリードしていける
のか…」岡本ら血の気の多い青年たちを中心に反発が巻き上がり、 理事長ら役員を突き上げた。 そし
て「今後、 従来からの木材屋仲間がどんどん復員してきて組合に加入する。 そのときのために理事の
定員に余裕を持たせ、そういったときに備えてはしい」 と要求した。 他業種からの転換者を役員から締
め出せとは言わぬところがミソ。理事のわくをふやして従来からの材木商だった人の発言権を強くしよう
という考えで、根底には組合が間違った方向に進むことを防ごうという気持があったのである。
 初代理事長の石森静氏は、岡本の筋の通った要求を受け入れ、理事の枠をふやすことを総会の席で
決定した。こうして組合は発足したが、組合発足後、加入者はどんどんふえ、昭和23年3月末現在には
93人となり、発足当時の2倍半近くに達した。 もちろん他業種からの転換が多かったが、 復員して店を
再開した人たちも含まれていた。統制撤廃がもたらした結果であるが、復興期だけに過当競争にはなら
なかった。それどころか、その年の6月28日、福井市と坂井郡を中心に大震災が発生、需要が急増した
のである。 米軍の空襲による被害からようやく立ち直ったところへ再び全滅に近い被害を受けたのだか
ら被害者はたまったものではない。亡然自失というか、物心面で大きなショックを受けた。 汗水たらして
建て宣した家や購入した家具などが、それこそ一瞬のうちに瓦れきの山と化したのだから当然である。
 終戦後、母「みつ」が建てた岡本家もご多聞にもれず倒壊し、再度被災した。 「なんちゅうことやの−」
母「みつ」はがっくりと肩を落とした。 岡本が軍隊生活を送っている間「等が戻ったときにくつろげる家を
…」 と、爪に火をともすようにして貯えた金で造り上げたものだっただけに無理は無かった。でも救いは、
大黒柱の息子が側にいることだった。「お母はん心配しなんな」と、とりあえずは雨露をしのげるバラック
を建て、商売ができるようにした。
 一方、我に戻った被災地の人たちは「とりあえずは住めるところを」と、競って再建に取り組み出した。
市内のどの材木店も、 お客さんの需要に応えるために、てんてこ舞の状況。 在庫はまたたく間に無く
なり、 仕入れに追われる日々が続いた。 とにかく建築材料のほしいお客が現金を持って買いにくるの
だから資金の回転には困らない。 「風が吹けば桶屋がもうかる」のたぐいで、被災者には悪いが、大き
な利益を短期間に得ることができた。岡本は、2代目としての基礎固めをこのときに行ったといっても過
言ではない。それも、やらずぶったくりの暴利ではなく、父時代の信用を傷つけないよう、適正価格で、
しかもできるだけ客の要望に応えられるよう努力したのだから立派だ。30歳に手の届かない若さではあ

初期の福井市木材林業協同組合の役職員
ったが、業界からは一目も二目も置かれ「近い将来、県
の木材業界を背負っていく男は彼だ」と広言してはばか
らない役員すらいた。 鋭い洞察力、説得力、行動力に
長けていたのだから当然であろう。
 組合員が増え、事務所への出入りが多くなったことも
あって。昭和24年に組合事務所を日之出2丁目の旭工
業内に移転、 翌25年に組合を発展的に解散、新しく施
行された中小企業協業法に基づいて「福井市木材林産
協同組合」として新発足した。いわば衣替えしての再出
発であった。 同組合は市売も手がけることにし、毎月8
日に実地することを決めた。このころになると、福井震災
の被災者は急造のバラックから本格的な住居への建て
替えに入り出し、木材の需要はますます多くなり、市売
りは活況を呈するようになった。
  ところが昭和27年に組合の土台をゆるがすような大きな事件が発生した。 かねてから賦金について
「高い」と不満を持っていた生産者が突如組合を脱退し、別の団体を結成したのである。
 彼等は5%の賦金に不満を持ち役員会に申し出、わず
福井市木材林産協同組合の新年会で
相撲の行司役をする岡本
(昭和30年 芦原温泉有楽荘)
か1ヵ月余で4%に下げられた。役員たちは1%下げたこ
とで「1件落着」とたかをくくっていた。事実、その後の不
満に村しては「やっと下げてやったのに、 まだ文句をいう
ものならもとの5%にしようか」とうそぶく幹部もいたという。
「まさか脱退することはあるまい」とたかをくくっていたの
である。
  しかし腹のおさまらぬ生産者たちは極秘のうちに脱退
を計画、 同年8月6日 福井県嶺北木材林産協同組合を
設立し、市売を開始した 。強力なライバルが出現したわ
けである。この責任を取って当時の役員は総辞職し、9
月7日、選挙によって新役員が選任されたが、岡本は再
度理事に就任した。
 ライバル出現によって、両組合とも基盤づくりにしのぎ
屋久杉の市売(昭和50年)
に姿を見せた岡本
をけずり、共に売り上げを伸ばしていった。このように岡
本は、理事をはじめ正副理事長として連続39年にわた
り、常にリーダーとしてその正しい運営と業界の振興発
展につくした。
 と同時に、木材の市売り事業の発展にも力を発揮した。
この事業は前述のように昭和25年スタートしたのである
が、市部の材木業者(買方)と郡部の木材業者(売方)
の間に相反する利害が生じた。このため問題の解決に
日夜努力を傾けた結果、昭和32年に県下一円の市売り
事業を組織化して、売方、買方の業者を以て構成した
「福井県木材市売協同組合」を設立し、全国からも例の
ない異色の組合として注目され、視察者が相ついだ。
組合員が、小売、製材業、 素材生産業など、 生産から
販売までの企業で構成されているのだがら注目を浴び
たのは無理もない。売方と買方が大同団結したわけで、当初年間1億円台だった取扱い高は昭和60年
には40倍を越えるまでに発展したのである。岡本は設立当初から役員として関係し、正・副理事長も歴
任した。
 事業の発展につれて福井市松城町の市売敷地は手狭になり、昭和60年5月10日、福井市稲津町地
籍に約3万360平方bの地を確保した。 近代的機能を持つ北陸最大規模の市場で、敷地内には、板、
角材などを保管する倉庫七棟(3168平方b)、鉄骨2階建の管理棟(970平方b)300台収容の駐車場、
丸太を置いておく土地があり、融雪装置も完備。松城町時代の3倍以上の広さである。新しい施設への
移転によって、 木材の搬入・搬出作業は非常にスムーズになり、 組合では移転を契機に、再び売上げ
北陸一の座≠フ確保を狙っているのであるが、これらに大きな力を発揮したのは岡本である。 当時、
彼は県木材組合連合会と県木材協同組合連合会相方の会長で、 県木材市売協同組合の理事もかね
ており、同組合の米田理事長を支え、この事業推進に大きな役割を果たしたのである。
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