大きくはないが、空襲で焼失後、母が新築した安住の地わが家≠ナ
復員後再開した材木店の
材木置場
母や姉と暮らすことになった岡本は、 家業である材木店の再開に向け準
備をした。すでに27歳になっていた。復員後1ヵ月半の4月「岡本材木店」
の看板をかかげた。いよいよ店開きである。父親の在在が関係方面によ
く知られていたこともあって、仕入れは非常にスムーズにいった。 岡本は
いまさらながら亡き父の商売人としての偉大さを知るとともに感謝をした。
 販売の方も、すベり出しはまずまずだった。とにかく昭和20年の米軍に
よる大空襲で福井市の9割が灰になったのだから、それから9ヵ月や10ヵ月経ても材木の需要は落ちな
い。売り込みはしなくても客の絶えた日はなかったのである。このため昭和14年に木材統制令に基づい
て設立された県地方木材株式会社は存在理由がなくなり自動的に解散に追い込まれた。 というのも、
この年の10月に木材統制法が廃止になったからである。
 さて商売が軌道に乗ってきたところで、母親の「みつ」は岡本に結婚をすすめるようになった。27歳とい
う年齢もさることながら、独身だと相手から軽く見られるのでは…という配慮からであった。 岡本も「母を
安心させたい」という気持からこれに応じ、母の選んだ女性と結婚した。岡本を今日まで陰で支えてきた
奥さんの孝子さんであった。 灰虚から一年しか経ていないだけに、 福井市の姿は、復興というにはほど

結婚式での記念撮影
(昭和21年6月4日 自宅で)
遠い状況であった。そんななかでの結婚だけに、世界の経済大国に成
長した昭和40年代以降の豪華な結婚式からは想像もできない簡素な
ものだった。 まともな結婚式場がないので、式は自宅で行った。披露
宴は、福井の料理屋や仕出し屋がせいぜい仮営業の状況で多くの人
を収容できなかったので、 奥さんの里である永平寺町(当時志比村)
の料亭で行った。当時としてはかなり豪勢の部類で、いわゆるお頭
(タイ)付き≠ナあった。とはいえ、今日の豪華さとはくらべようもない
簡素なものであった。
 新婚旅行は、石川県の片山津温泉の「かのや」という旅館。北陸線の
国鉄 (JR) 福井駅から汽車で動橋まで行き、そこで電車に乗り換えて
片山津へ行くのである。今と違って列車の数は少なく、どの列車も混ん
でいた。下り列車の利用なので大阪方面への上り列車ほどの混みよう
ではなかったが、ゆっくり座ってというわけにはいかなかった。二人が手
にした荷物は米と炭であった。主食と燃料を自参しなければ新婚さんと
いえども泊めてもらえなかったのである。でも、さすがは温泉旅館。 しっ
とりと落着いた部屋から湖を眺め、 新鮮でうまい魚も口にし、ゆっくり湯
につかって新婚の一夜を過ごした二人は、翌日には福井へ戻り商売に精を出した。思えば厳しい時代で
あった。
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