比較的のんびりとした日々を送っていた父島ではあったが、2月15日米軍が硫黄島と父島を攻略するた 
め攻撃してくるという情報が入ってくる。案の上、朝方に大隊本部から、米戦艦船が停泊したとの知らせ。
さっそく高台に登り双眼鏡で眺めると、かなりの数の艦船が停泊していた。直ちに戦闘用意を始めた。
翌日からまず飛行機による爆撃が始まり、艦載機が間近まで降下して銃撃を加えた。3日間。朝、タの
別なく猛攻を受けたが、上陸の気配はない。米軍は硫黄島に全力を注いだという情報が入ってきた。
 硫黄島と参謀本部とのやりとつは初め暗号電であったが、10日目あたりから生電に変わった。岡本は
電波探知部隊に入りびたりで情報に聞き入った。栗林師団長以下2万数千人の将兵が死にもの狂いで
抵抗し、米軍のてこずっている様子が手にとるようにわかる。栗林中将、安土中佐らの顔が目に浮かぶ。
「いまごろどうしておられるだろうか」。「武運をお祈りします」と心の中で手を合わせた。
 「千鳥浜丘陵下に敵が集中し、篭中の離魚の観を呈している。しかしこれを撃つべき火器なし」との連絡
が参謀本部に発せられている。現地の将兵たちは切歯扼腕していることだろう。
 しばらくすると参謀本部から「状況承知した。差し向かわす飛行機なし。奮闘を祈る」の返事が発せられ
た。岡本は腕ぐみをして天を仰いだ。万事休すであった。

父島の境浦(戦後)
 でも硫黄島の将兵は実によく頑張った。数百隻の艦船に取り囲ま
れ、艦砲射撃、爆撃、機銃掃射と山の形が変わるほどの弾丸を打
ち込まれながらも歯を食いしばって耐え、上陸米軍に大打撃を与え
た。
 記録によると、上陸した米軍は3万1千人。うち戦死6821人、
負傷2万1千865人の計2万8686人。日本軍は戦死1万9900
人、負傷1万33人の計2万933人。攻撃側の死傷者が守備側を
上回るという特異な戦いであった。日本軍の死を恐れぬ突撃は
米軍を恐怖のどん底に焔し入れたのである。
 しかしなんとしても、制海、制空権が敵の手にあり独立無援なので抵抗にも限りがある。栗林師団長を
はじめ陸海軍の参謀たちは「もうこれまで」と大本営訣別の電報を打ち(3月17日)、全員総攻撃に移り
玉砕。栗林師団長らは自決した。
 当時、父島ではここまでくわしくはわからなかったが、全滅したらしいことは耳にした。断腸の思いで
あった。
 「つぎは父島」。岡本はもちろん駐屯の将兵はみんなそう思った。しかし案に相異して米軍はフィリピン、
沖縄に焦点を合わせるとともに、父島を飛越え、本土の攻撃を一段と激しくしてきた。そして、8月6日に
広島市、ついで同9日に長崎市に原子爆弾が投下され、昭和天皇の「朕の身はどうなってもいい。
これ以上国民を苦しめるのは耐えがたい」とのお言葉もあって8月15日、戦争終結、ポツダム宣言を受諾
長かった戦いの幕は下りたのである。
 米軍上陸に備えて準備を進めていた1万の将兵は、悔やしさと、ほっとした感情とが複雑に交差した。
終戦後しばらくして硫黄島から海兵隊1ケ連隊が父島に上陸してきた。上陸に先立って、飛行機から
薬を撒くので野菜など食糧などは外に出さないようにとのアナウンスが低空飛行で行われた。日本語
である。薬とはDDTのことで、カ、ハエ、ノミなどは完全にいなくなった。海兵隊は大村地区を中心に天
幕を張って駐屯した。将校全員が大村に集合させられ、武装解除が行われた。軍刀、拳銃、眼鏡などを
米兵に手渡し、丸腰になった。国旗掲揚塔の日の丸がおろされ、星条旗にとって代る。悲しかった。
くやしかった。岡本はもちろん、将校たちはぐっと唇をかみしめ、中には、ほほに涙の伝わっている者も
いた。
 11月に引き揚げが始まったが、岡本は独身ということで、米軍使役として残されることになった。
陸海軍各300人、計600人と共に残留、陸軍の指揮を取った。それから3ヶ月余の昭和21年2月、
残留租は最後の引揚船で清入港へ入港、それぞれが故郷に向かったのである。
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