昭和19年7月、第11期が卒業するという直前に「第百九師団司令部に出向を命ず」という命令を受けた。 |
東京に出て東部軍へ打ち合わせに出ると、通路で久留米第3中隊長だった宮沢中佐に出会った。 |
東部軍の高級副官だったのである。出向を命ぜられた旨を告げると、作戦主任参謀の所へ案内された。 |
ところが、この参謀は、岡田啓介首相の秘書官で、2・26事件の際に反乱軍の手で首相に間違えられ |
殺害された松尾伝蔵大佐の令息である松尾新一中佐であった。実家が共に近くで、かねて実こんの間柄 |
であり、岡本は奇縁に驚いた。松尾中佐も同様で「元気だったですか」とねぎらってくれた。 |
第百九師団は東部軍が編成した部隊で、師団長は栗林中将。硫黄島に配属されていた。戦況は日に日に |
不利になり、当時はすべてに制海、制空権はアメリカ軍の手中に収められていた。そんな中での硫黄島行 |
きである。岡本は、そのことを知らされて「今度こそは…」と腹をくくった。「もう生きて帰れない」と覚悟した |
のである。 |

陸軍中尉時代の岡本
(硫黄島へ移動する前に、帰福して写す)
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「硫黄島では水際戦闘をしっかり教育してやって下さい」 |
松尾中佐はこういったあと、岡本を偕行社別館(佐官の宿舎)ヘ連れて行った。破格の扱いを受けたので |
ある。松尾中佐はそれだけでなく、そこから福井の連隊区司令部へ電話をし、母の上京を指示された。 |
宿舎で船団が出るまでの一週間、母と2人の生活を送った。 |
松尾中佐は東部軍の中枢にいるのだから戦況はよくつかんでいる。硫黄島がいかなる状況かもわかって |
いた。「岡本は生きては帰れんだろう」と特別のはからいをしてくれたのである。母「みつ」は「ありがたいこ |
とです」と喜び、松尾中佐に深く頭を下げた。 |
乗船の前日、松尾中佐に同行して岡田啓介元首相宅へあいさつに行った。岡田元首相は喜んでくれ、 |
そして「昨日、父島が初の爆撃を受けた。兵隊の心はすさんでいるだろうし、食糧事情も最悪らしい。 |
釣道具、野菜の種子を持って行った方がよい。将校行李はできるだけ多くな…。 |
くれぐれも犬死はするなよ」と、親が子に言って聞かせるような口調で語りかけてくれた。 |
岡田首相も「今回の出向で岡本は生きては帰れないだろう」とみたのである。 |
「これでいよいよ終りか」。岡本は自分に言い聞かせたが、どういうわけか悲壮感はなかった。かえって |
気持ちがすっきりしたようだった。しかし、母「みつ」は異なった。岡本と別れるまではつとめて明るく振まっ |
ていたが、彼と別れ、福井へ戻る車中では「等はどんなにか苦労するんだろうか。どうせ死ぬんなら弾に |
当たって苦しまずに死んでほしい。でもできることなら生きて帰ってほしい」と、目に入れても痛くない我が |
子の無事を祈りながら、身の置きどころのないような気持ちにかられていたのである。 |
出発の日、1500dの芝園丸に乗船、100人の見習士官も同行した。彼等は小笠原諸島に上陸するとの |
ことであった。卒業を繰り上げて戦地へ送られるわけで、戦況の厳しさがひしひしと伝ってきた。 |
同船と貨物船を駆逐艦、巡洋艦が護衛し船団を組み、夜に入って東京湾を出、南下した。ところが湾外 |
に出たとたん、魚雷攻撃を受けた。 |
夜が明けてしばらくしたとき、通信室長があわただしく船長のところへやってきた。通信文を手にしている。 |
「敵機動部隊現る。船団は速かに北上すべし」 |
つまり引き返せという指示である。貨物船は10ノット、芝園丸は12ノット躯逐艦や巡洋艦とは比較にならぬ |
ほど遅い。まず駆逐艦、巡洋艦が視界から消え、ついで貨物船も芝園丸から次第に遅れ、いつの間にか |
姿が見えなくなった。船団はバラバラになり、それぞれが単独航行となって、うす気味悪い時間が続く。 |
乗船しているすべての人は、全神経を耳、目に集中している。表現しようのない緊張感が漂う。そんな |
時間がどれだけ続いたのだろうか。やがて監視兵から「右15度、敵魚雷」、相つぎ「右45度敵魚雷」との |
通告が入る。300b離れたところから魚雷が白波をたててくるのが見える。岡本にとっては初めての経験。 |
どうなることかと手に汗した。海でのことは船乗りにまかせるより手がない。船員の目の色が変っている。 |
船長は、右方向に少々進路を変え魚雷をさける。へさきすれすれに約4bくらいの魚雷が2本「シュー」 |
という音を出しながら通過した。まさに間一髪。側面からやってきたのは船の後方100bくらいを通り過 |
ぎた。さすがは船長。冷静に状況を判断し適格な処置を取った。 |
「やれやれ」とほっとしたのはほんの束の間。またまた監視兵からの通報。こんどは潜水艦が向かって |
くるというのである。船長は双眼鏡で、浮上しつつある清水艦に向けて20_機関砲の発射を命じた。 |
潜水艦は、肉眼でも潜望鏡が見えるところまで近づいている。曳光弾が弾道を曳き、潜水艦に当たるが、 |
相手はビクともしない。潜水艦の方は15a砲を持っているので、浮上して発射されると、芝園丸の方は |
ひとたまりもない。そこで船長は潜水艦の横腹目がけて体当たりすることに決めた。この方法が成功すれ |
ば当方の勝利は間違いない。図体はこちらの方が潜水艦より大きいからだ。その間に15a砲をぶち込ま |
れると負けるので、潜水艦が浮上するまでにやらねばならないいわば捨身だ。 |
潜望鏡でこれを知った敵の潜水艦は「これはいけない…」とばかりに急いで潜水を始めた。 |
しかし、敵も執ようである。攻撃してきた潜水艦は1隻ではなかった。船の後方でも浮上してきたのであ |
る。報告を聞いた船長は、爆雷投下を指示、潜水艦向けて投下させる。爆発したとたんに芝園丸はすごい |
震動を受けた。2bほと吹飛ばされたようなショックである。敵にも被害を与えたようだが、芝園丸も被害を |
受けた。 |
「船尾から浸水してきた。排水を頼む」 |
船長から手を貸してはしいと頼まれた岡本は、100人の見習士官を動員、バケツリレーで排水作業をした。 |
その間に機関長がすばやく20aの亀裂を処理し、浸水を防いだ。こちらも痛手をこうむったが、敵の潜水 |
艦の傷はさらに大きく。致命的のようであった。船長が船尾の方へきてくれというので行ってみると、海面 |
一面に油が浮いている。爆雷が敵艦に命中し、沈没したか、航行不能に近い状態になったようだ。船長の |
要請で現認書を書く。芝園丸は修理のため八丈島に寄港した。同島警備隊から連絡将校がやってきて |
「ご苦労でした。おめでとう」と言ってくれた。「何がおめでたいのか?」と問い返すと「貴君達の交戦の |
電波を傍受したし、敵の潜水艦からも「SOS」を傍受でき、勝利の戦況を知ったというのである。 |
応急修理がなって司令部から「敵機動部隊去る。船団は再び南下すべし」という指示があった。しかし |
燃料は残り少なくなっており、船はあくまで応急修理の状態なので、任務を遂行するためには船の完全 |
修理をすべきだと主張した。もちろん船長らとも協議の上このような主張をしたわけだが、幸いにも聞きい |
れられて船は横浜へ戻るよう命ぜられた。巡洋艦や駆逐艦はいつの間にか姿を現し、再び護衛してくれた。 |
でも出発時には同じ船団を組んでいた貨物船は潜水艦にやられたのか姿が無かった。今回のことは岡本 |
が初めて経験しだ実戦であった。制海、制空権の無い戦いの厳しさ、あわれさをいやというほど知らされた。 |
船の修理を待つ10日余り、見習士官は芝の増上寺に入り待機した。岡本は上陸後直ちに東部軍へ出か |
け松尾中佐にことの成り行きを報告した。同中佐は「船の修理が完了したら知らせるから福井へ帰って |
いたら…」といってくれた。まことに温い計らいで、岡本はまたまた母と暮らすことができた。 |
船の修理が終わったという松尾中佐からの連絡で上京したが、岡本は再び乗船する気にならなかった。 |
岡田啓介元首相の「犬死はしなさんなよ」という言葉を思い出したのである。硫黄島という目的地へ着く前 |
に海の藻くずになりたくなかったのである。飛行機ならひとっ飛びだ。「ぜひ飛行機を利用させてほしい」と |
申し出た。松尾中佐は「そうか」と飛行便を調べてくれた。その結果、一週間後に所沢(埼玉県)飛行場 |
から薬物などを積み込んだ便が出るから便乗せよという知らせを受けた。 |
硫黄島司令官、栗林中将へのおみやげにと、岡本は所沢郊外の農家でサツマイモを約4`蒸してもらい |
携行した。昭和19年8月中旬のある日の早朝、岡本らを乗せた双発爆撃機3機は編隊を組んで出発した。 |
このころ内地では砂糖の配給が停止、都会地の学童が強制的に疎開されるかたわら兵役編入が18歳に |
繰り上げられた。戦争による国民生活への影響が日増しに厳しくなったのである。それでも内地はまだ |
よかった。制海、制空権を奪い取られた南方戦線では、物資補給がままならず、将兵は野や山の草、 |
そしてトカゲ、ヘビ、ネズミに至るまで食べた。火や煙を出すと直ちに攻撃される。まさに地獄の果てに |
いるような日々だったのである。 |
岡本は当然、硫黄島での生活は厳しいということを耳にしていたので、イモを用意したわけだ。もちろん |
野菜のタネも行李につめた。 |
岡本は、編隊先頭機の機関銃射手の坐に着いた。機長は少尉。岡本はそのとき中尉。なんとなくうまが |
あった。その機長に「敵機が現れたときは発射を頼む」といわれ、首をタテにふった。というより、引き受け |
ざるを得なかった。同乗していくお客さんではなく、貴重な戦力の1人に組み入れられていたからである。 |
アメリカの戦闘機が群をなして攻撃してきたら、いかに頑張っても万事窮すである。「自らが無理を言って |
同乗させてもらったのだから運を天にまかすよりない」。岡本は腹を据えたが、正直いって、機関銃の取扱 |
いには慣れていないので心細かった。 |
離陸した飛行機は5000bの高度を保った。朝焼けの富士が紫色に輝き、神々しい感じすら受けた。 |
岡本は機長に富士を2回旋回するよう頼んだ。「これが最後だなあ」との気持ちからだった。機長は岡本の |
心中を察して快よく応iじてくれた。 |
船と違って飛行機は速い。1時間ほどで硫黄島に着陸した。その間敵機に遭遇することはなく、岡本は |
機関銃の引き金を手にせずに済んだ。低空から眺めた硫黄島は、相つぐ米軍の爆撃などで、大小のクレ |
ーターが無数にあり、まるで月面のよう。全島の緑はほとんど消え去って、赤茶けた色と化していた。 |
飛行場に着陸。機長に別れを告げる。 |
「無事で…」 |
「ありがとう。」 |
簡単なやりとりではあるが、互いに万感の思いを込めての言葉である。爆撃機はエンジンをかけたまま、 |
内地がら積んできた救援物質を大至急下ろし、ついで白衣の兵隊を搭乗させた。兵たちはやせ衰え、顔の |
色は青く、ヒゲはぼうぼう。この世の人とは思えないくらいであった。暑さと栄養不足などによるものだろう。 |
「どんなにつらかっただろう。内地でゆっくり休養しろよ」と声をかけ彼等の出発を見送った。 |
離陸間際に空襲警報が発せられ、三機はあわただしく内地へ向けて飛び立った。硫黄島に配置されて |
いる飛行機も、避難した。 |
岡本は待避壕に避難、空襲の状況をみていた。20歳前の海軍の水兵が裸のまま高射機関砲の坐に |
着き、指揮官の命で射撃を始めた。轟音が響いてくる。いよいよ襲来である。シャーと爆弾の落ちてくる音 |
が耳に響く重い音がした。作烈音だ。思わず耳を押え地に伏した。 |
しばらくすると、なにもなかったような静けさが戻った。岡本はジープに便乗して、北部丘陵地にある師団 |
司令部に出向いた。栗林師団長に到着したことを報告するためであった。持参したイモを差し上げるとたい |
へん喜ばれ、恩賜のタバコを1箱くれた。そして「この島最高のごちそうをしよう」といわれた。なんだろうと |
キョトンとしていたら、タコの葉で葺いた小屋の軒下にある甕のところへ連れていかれた。師団長がその |
蓋を取られた。のぞくと水の表面に虫が浮いている。ボウフラだろう。甕の腹をポンポンと叩くと、ボウフラは |
さっと隅の方に逃げる。その間にさっとボウフラのいない水を汲み上げ、それをわたしてくれたのである。 |
この水はスコールの雨水をためたものである。ここは軍事上重要な島ではあるが、人間の生活には全く |
適さなかった。まるで砂漠なみだったのである。栄養失調で兵がどんどん倒れていくのは当然であった。 |
滞在中は、陣地構築の指導や新しい水際戦闘を教育した。飛行場南端の摺鉢山には独立大隊が駐在、 |
大隊長は昭和12年ごろ福井師範の配属将校をし、鯖江連隊にも居られた安土中佐であった。岡本の方か |
ら声を掛けると思い出されてたいへん喜ばれ、福井や36連隊の消息などについていろいろ尋ねられた。 |
戦場で旧知と会える嬉しさは格別。岡本も安土中佐同様嬉しかったし、一種の安堵感もあった。 |
さて、岡本が乗船する予定だった船団は、修理後芝浦港を出発したが、小笠原諸島の北端で魚雷攻撃 |
を受け、芝園丸は沈没して百人の見習士宮は10人ほどが救助されただけ、目的地を目前にしてほとんど |
が戦死した。岡本も予定通り乗船しておれば、おそらく生命は無かったであろう。飛行機なら安全という |
保障はなかったにもかかわらず、船を嫌って飛行機を選んだのは全く虫の知らせだったのか。岡本は改め |
て、自分の強運を思い知ると共に、神仏、父母たちの加護に感謝せざるを得なかった。 |
硫黄島に4ヶ月余滞在のあと、昭和19年12月に父島へ移った。南方諸島の兵站基地として重要な島。 |
硫黄島と異なって緑も水にも恵まれた。ここでの教育は早々と終わったが、内地へ帰る船も飛行機も無 |
いし、来てもくれなかった。このため岡本は残留を命ぜられ、父島502部隊の中隊長になった。さっそく行李 |
につめてきた釣道具や野菜の種子を分配して、兵たちに魚を釣らせたり、野菜を栽培させた。 |
これが食糧補給に大きく寄与したことはいうまでもない。 |