昭和17年12月、突如として転勤することになった。久留米予備士官学校教官として出向せよという命令で
ある。
 束安までセスナ機で飛ぶことになったが、天候が悪く、5日間待機した。その間、山崎大隊長が「きまま」
という飲み屋へ連れていってくれた。最後の晩は、「きまま」の女性たちも涙を流して別れを惜しんでくれた。
彼女等も好きでこの地へやってきたわけではない。家庭の事情など、人には言えない苦労を背負ってやっ
てきたのである。「できれば一度帰ってみたい」と望郷の念にかられることだってある。そんなときに岡本が
命令で久留米へ行くことになり顔を出したのだから、彼女たちはうらやましがった。「ああ、私たちは帰れな
い…」こんな気持ちにかられたのであろう。辺境の地で顔見知りのお客さん(将校たち)と別れることの切な
さも重なって涙となったのであろう。
 「さようなら…。君たちも頑張って下さい。縁があったらまた会えるかも知れない。元気でね」
 岡本は彼女らにこう声を掛け、店を後にし、東安へ飛び立ち、そこからさらに新京へ飛び、そこから汽車に
乗り、釜山へ(現韓国)ヘ行き、関釜連絡船で下関へ。そして久留米へと向かった。

久留米予備仕官学校時代
(別府郊外の十文字原練習場で第8期生と。
  中央サーベルが岡本。昭和18年)
 久留米予備士官学校は、奉天の予備士官学校が5期
生だった岡本らの卒業後久留米へ移転したもので、校長
の中村中将以下教官のスタッフは奉天と同じであった。
卒業した学校の教官になれる。しかも商業学校しか出て
いないのに自分が育てられた予備士官学校の教官とし
て戻るのだから、まことに名誉といえる出向であった。
あのままずっと満ソ国境にいたならばどのような運命を
たどっていたかわからなかっただけに、岡本はすぐれた
軍人ということのほかに極めて強運に恵まれた、努力に
よって教育総監賞という栄誉を得たことも運を招いた
一因である。
 久留米では第四中隊の第5区隊長を命ぜられ、8、9、
10、11期生を教育した。士官学校から歩いて5分の
高田某宅に下宿し、学校へ通ったが、岡本はこのとき初めて食糧の配給度が極めて厳しい状況にあることを知っ
た。下宿屋では、魚や肉がお菜に出ることは滅多になかった。配給で支給されることが少なかったからだ。
ところが、岡本はどこまで運に恵まれているのか知らぬが、酒保に36連隊から出向していた山根という顔見
知りの軍曹がおり、なにかと便宜をはかってくれ、岡本は栄養を補給することができたのである。
 久留米在存は3年間。この間に8〜11期までの四期を各地へ送り出したが、教えた生徒の中には、戦後
その名を広く知れた人たちがいた。例えば磯辺律男国税庁長官、恒松制治島根県知事、評論家の藤原
弘違、フィリピンの山中で敗戦後も長らく潜伏して、敗戦の知らせと投降を呼びかけるビラを信ぜずに頑張っ
ていた小野田寛郎などである。
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