| このような猛訓練を受け、甲・乙発表を前に、鯖江連隊は長年の歴史を破って第九師団から分離、満州の |
| 第28師団に編入された。 昭和15年7月で、幹部候補生の甲
・乙発表はこのときまで行われなかった。どの |
| ような理由で九師団から分離したのかは岡本らにとって知る由もなかったが、ノモンハン事件でソ連に破れ |
| た関東軍を補強するため、勇猛をもって知られた鯖江連隊を満州へ移動させることにしたのではないかとい |
| うことは想像される。 |
| 能登の七尾港からで雄基というところへ上陸し、満鉄を利用して新京に着き、第1大隊は一面坡というとこ |
| ろに駐屯した。駐屯してしばらくたった9月に、幹部候補生の甲・乙発表があった。甲種になると予備士官学 |
| 校への入学が許可ざれ、将校になる。 乙種はその資格がなく下士官からスタートせねばならない。
大きな |
| 差である。岡本は甲種合格で、しかも序列は首位だった。
候補生60人のうち18人しか合格しないのである |
| から、この上ない名誉なことであったし、別れを悲しんだ母親に対する親孝行にもなったのである。 |
| 9月下句、同期生17人を引率し、奉天陸軍予備士官学校へ入校した。このとき入校したのは、約1200人。 |
| そのほとんどが専門学校、大学出で岡本のように旧制中学出は全体の10%あるかなしだった。しかし岡本 |
| は「大学出に負けてたまるか」という気構えがあった。 |

奉天予備士官学校での銃剣術大会 |
| 「男一匹勝負するのはこのとき」と大いに発奮し、がむしや |
| らに頑張った。 とにかく満州の冬は厳しい。万事要領よくや |
| らないと凍傷にかかる。鼻水などたらそうものならすぐさま凍 |
| る。北海道育ちならともかく内地育ちには想像もつかない厳 |
| しさなのである。その中で士官になるための訓練を受けるわ |
| けで、生徒も教官もたいへんであった。士官になるのだから、 |
| 戦闘訓練もさることながら、戦術に関する学習に力が入れら |
| れるのは当然である。この分野では頭脳が勝負になるが、 |
| 岡本は東大、京大出に負けなかった。 それを証明したのが |
| 昭和十六年春の卒業時である。 約12師団から選抜されて |
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| 入校した1200人の中で教育総監賞受賞者の5人の中に入ったのである。総監賞の副賞は銀時計。 |
| 岡本はまた一つ親孝行を重ねたのであった。 |